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「なにしろ、迷ふんだな」
「ふむ、毛嫌ひされて、孫ができてからやつとこさ婿養子になつたんだからね。――しかし、今ぢや正当な相続人だから、喜作さんに分けた分も自分の物だといふ理窟なんだね」
房一はいくらかつんぼの道平の耳に口を寄せて、大声で云つた。
何かしら幸福さうな緊張した面持で竿をさしのべ、青味を帯びてゆらゆらする水の流れ工合や、川底に見える黒い大きな沈み石や、時々ひらめきもつれては又見えなくなる鮎の影などにぢつと眼をこらしている彼等の姿は河の上手から下にかけていたる所に見受けられた。それは服装の似通つているのと同じやうに身ゆるぎもしない立姿のために、ちよつと見たところではどこの誰だか殆ど見分けがつかなかつた。河瀬のだるげなどよめきと、絶えず通つている爽やかな風と、空の高みに白く輝いたまゝぢつと一所から動かうともしない雲や、時たま強い風にあふられてさつと白い葉裏をひるがへす対岸一帯の草木や、その風はもう終つたかと思ふと又下手の方で白い葉裏のざはめきが起つて、それは何か眼に見えない大きな手によつて撫なで上げられてでもいるかのやうに、次々と対岸の急斜面に現れて、やがてはるか下手の方に遠ざかつて行くのであつた。岩の上に、茂みの蔭に、また水際に、思ひ思ひの様子で立つている彼等一日作りの漁師達は、黙つて、ぢつとして、汗ばみながら、それら外界の大きく強烈な印象の前に頭を垂れ、それが彼等を軽る軽るとやさしく愛撫し抱き溶かしこんでいるのを感じているやうに見えた。
はるか下流の方で、鈍いが、重味のある大きな音が響いたのだ。それは、はじめぼおーんといふ風に聞え、つゞいてドカンドカンと来た。
そこには一人の男が顔を手拭で蔽はれたまゝ、一種普通でない様子で寝かされていた。手拭の下からは赤黒く汚れた額の一部と、土埃にまみれた頭髪とがはみ出していた。その傍には、やはり印袢纏着の真黒い顔の男がついて、ぽかんとして戸外を眺めていた。
「ほう、この家鴨あひるの嘴みたやうな金具は、こりや何かな。ほう、こりやよく光る小刀だな。こんなに何本も何に使ふのかな」
と云ふ、思ひがけないほどはつきりした声で差し出した。そして、又淡泊なさつさとした足どりで台所の方へ去つた。
かまわないから開けてみろというので、男二、三人が協力して無理に第一の戸をこじ開けると、内には誰もいなかった。第二の戸をあけた結果も同様であった。その騒ぎを聞きつけて、他の客もあつまって来た。宿の者も出て来た。
「さうだ、君はあの時の射撃大会に出たさうだね」
「だいぶ、様子が変りましたな」
間もなく房一は別れを告げ、庭前で又馬の前に立つて二三の話をし、相沢の家を立去つて行つた。相沢のやうな家を患家に持つことは、十軒もの小患家を得たに匹敵すると、ひそかに満足しながら。そして、今日のもてなし方から考へると、医者として十分好意を与へたにちがひない、といふことにも満足しながら。
と、房一が声をかけた。